ラズベリー
聖なる斜面から生まれたハーブ
ネイティブ・アメリカンの人々によるメディスン・ホイールは、方位と季節をそれぞれの精霊が司り、自然界のすべてを兄弟姉妹とする思想で、獅子座の季節は「木の実が熟すころ」と命名されています。
「メディスン・ホイール・シャーマンの処方箋」サン・ベア&ワブン著 VOICE刊
植物界のトーテムはラズベリー。
根にはタンニンが豊富で、収れん作用、抗菌作用があり、うがい薬や切傷の湿布薬として活用されていたといいます。
葉でつくるお茶はラズベリーリーフとよばれ、いまも人気のたかいハーブティとして市販されています。
ほんのり甘くやさしい風味で、粘膜の不調を修復し体内器官をきれいにするはたらきがあると考えられ、なかでも子宮強壮作用はとくに注目されて、女性のためのハーブティとも呼ばれます。
ラズベリーリーフにふくまれる成分で注目されているのはフラガリン。
子宮の収縮をうながし血管収縮作用もあるので、出血をおさえる効果が期待され分娩時や産後ケアにとりいれている産婦人科もおみうけします。
もうひとつの注目成分はエラグ酸で、抗酸化作用にすぐれ、抗菌作用、抗ウイルス作用もあり、美白効果や成人病を予防する効果が期待されています。
ラズベリーリーフティはビタミンC、B群、鉄分やカルシウムも豊富なので、まいにちの健康サポートにもむいており、口あたりがやさしく常飲もつづけやすいです。
ネイティブ・アメリカンの人々は小枝も無駄なくお茶にして、呼吸を楽にし、風邪の予防・治癒に使用してきたといいます。
日本ではラズベリーの実は、生食するというよりスイーツや冷凍食品、ジャムやジュースでおなじみです。
フランス語でフランボワーズ。赤い宝石みたいに実をかざったケーキは日本でもすっかり定着しました。
バラ科キイチゴ属に分類されたラズベリーですが、キイチゴ属(Rubus属)は、分化がはげしく雑種も多いので、現時点で約1500種のカテゴライズはすんだものの、学術的な整理は自然界の複雑さに追いつけないようです。
ラズベリーの実で栽培種として流通市場に定着したのは小アジア(トルコ)原産の学名 Rubus idaeus(ルブス イダエウス)で、原生種はヨーロッパと北米に分布しています。
和名ヨーロッパキイチゴ。
香り成分のラズベリーケトンは、唐辛子などにふくまれるカプサイシンに分子構造が似ており、脂肪燃焼作用があるともいわれます。
ヨーロッパキイチゴの亜種(種小名が同じで、そのつらなりにある変種と定義されているもの)は、日本にも自生種がいくつかあります。
蝦夷苺(えぞいちご)は北海道の山間部におおく、深山裏白苺(みやまうらじろいちご)は関東・中部エリアに自生しています。
同属キイチゴのなかまで、御所苺(ごしょいちご)などの未熟果を乾燥したものは覆盆子(ふくぼんし)と呼ばれ生薬となっています。
強壮作用があり、成人病の予防や眼精疲労に処方されるそうです。
わたしたちがよく口にしているラズベリー栽培種、Rubus idaeus(ルブス イダエウス)ですが、種小名の「idaeus」は、古代ギリシア時代にイダ山(トルコ語でカズ山)の斜面に群生していたのを発見し、イダ山にちなんで命名された説があります。
イダ山はゼウス神が赤ん坊のときにかくまわれていた聖地とされ(クレタ島のイディ山説もあり)、トロイア戦争を見物する神々の観覧席でもあったとか。
「聖なる斜面」とも呼ばれ、ギリシャ神話では神々による人の子誘拐劇の舞台として登場します。
見方を変えると地上世界から天界への架け橋となる坂、日本風にいうところの黄泉平坂(よもつひらさか、こちらは死者の国ですが)、みたいなエリアだったのではないかな、と。
トロイア王のこどもガニュメデス(水瓶座となった人物)は、イダ山で鷲の姿となったゼウス(わし座、1等星はアルタイル・彦星)にさらわれた、というのが現代に流布している神話のひとつですが、それはつまり人の子が「聖なる斜面」でヤコブの梯子の一段目に到達し、昇天したという風にも読むことができます。
ヤコブの梯子 (旧約聖書)
地上から天国に通じる梯子あるいは階段。
旧約聖書の創世記28章10–12節で族長のヤコブが見た夢に登場する。
ギリシア神話では、水瓶は神酒ネクタルを給仕するガニュメデスのもつ酒器と伝えられています。
不死の霊薬入り瓢箪をもつ南極老人とかぶっているような気もしますが、水瓶座のばあい美少年のガニュメデスというイメージが定着しています。
星座をあらわすイラストも青年が水瓶をもっている姿で、鷲にさらわれて天界入りしましたというストーリーは、そのまま星座として夜空に配され、鷲座はいつも水瓶青年を狙うように、星空のディスタンスをしています。
聖なる斜面、「坂は、裂く、裂け目であり、常世と現世の境界線がほころぶところ」。
先進的な占星学者、精神世界研究の第1人者でもある松村潔先生の著作で読んだ一説ですが、坂道をのぼりおりするときや、橋をわたるとき、たしかに空気感が一変するサカイ目のような場所があるなぁと、実感をともなって腑におちた説でした。
ずっと古い時代、たとえばアリストテレス(古代ギリシアの哲学者)の時代には、人間は他の生命領域と筒抜けの生存状態だと考えられた。
アリストテレスの生命の階段は神、天使、人、動物、植物、鉱物というように連鎖していて、上にあるものほど本質がつよく、下にあるものほど質量が強い。
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ある時代から、物質で計測できないものは存在しないという考え方が出てきた。
人の上に存在し、意識として人よりも高速なために、わたしたちからは無に見えざるを得ないものは、存在しないと思われるようになった。
「死後を生きる」松村潔 アールズ出版
獅子座の対抗に位置する水瓶座は、12分割された人間心理(12星座)では獅子座の対となる象徴です。
ヒトのからだでたとえるなら獅子座の心臓が動脈をとおして中心から末端へ血液をおくり、水瓶座の静脈は末端から中心へ血液をおくりかえす共同作業によって、人体という小宇宙が機能します。
対となっている獅子座と水瓶座は、どちらかが強すぎても弱すぎても、正常に機能することはできません。
獅子座と立秋
「だしきった、やりきった」あとにおとずれるここち好い疲労感は、暑さのピークをむかえる立秋とともに、ほっと一息ブレイクタイムへといざないます。
ほんらい自分の創造的な活動がじゃまされると息ぐるしくなり、身のうちからわきでる情熱や活動意欲をじゅうぶんに発揮できないのなら、なんのための人生だろう?とまで考えてしまう獅子座の特徴は、年中いっとう熱量の高くなる季節に発散してきた創造的エネルギーのどあいによって、立秋のころの充足感も変わってくるように思います。
情熱の発散、存分にあそびをたのしむ自由、ドキドキの連鎖、ドラマティックな展開。
こころが飛翔したがる獅子座は、数百年にいちどやってくる彗星(マレビト成分)の自由性に焦がれるコメットハンターよろしく、未知の領域へ、無上のよろこびを拡張したその先へと、ちいさなからだにおさめられた心臓の拍動をつたえることに年中夢中です。
星の世界からふってきたよろこびをうけとると、動機の萌芽は動悸の高鳴りとなって背中をおしてくれることもあり、萌芽ははじめのうちは霧霞のようにたよりないイメージながら、「見る」ことでだんだんと輪郭がうかびあがり、気体のようにうごめきだし、さらに「気をそらさずに見つづける」と、こんどは液体のような濃密さをもちはじめて、ありありと脈動する「気配」がうまれてきます。
地に生きる植物たちが、若芽をだし葉をしげらせ、太陽にむかってみずからを完全開放するように花ひらかせる段階は、きっとヒトがイメージを練りあげて、質感をともなうような手ごたえを感じられる「気配」をうみだすのとおなじことではなかろうか、と。
花がしおれて果実のなかにスピリットを充満させるように、はかないイメージから練りあげられた「気配」は質量をふやし、やがて熟れた果実のように香りを放つようになると、ほどなく土元素界への誕生となります。
わたしたちの想像力(因)は、創造物(果)となって地上世界に誕生し、秋の山野のようにカラフルに現世(うつしよ)を彩っているのだろうな、と。
イメージは自分の一部を分割して生みだした分身のようなもので、創造的熱量をそそいだぶんだけ、大きく成長してゆくものだと感じています。
創造物はジャッジしない視線で「見る」ことによって育まれ、見ているうちにたがいの境界線を凌駕して、一体感や統合することのシンプルなキモチよさをもたらしてくれるんだなぁ、とも。
植物を太陽光が育むように、陽の光みたいな「視線」にはちいさなイメージのこぼれ種をはぐくむ熱量が、たっぷりふくまれていると感じます。
いまはもうすっかりペーパードライバーになってしまいましたが、18で免許をとったわたしはドライブが大好きでした。
亡き父の形見となったセドリックをゆずりうけ、北海道のはしからはしまで、はたちになるまでの2年の間、無我夢中で走りまわっていました。
車移動にはまったのは、つぎつぎと目に映る壮大な景観に魅入られてしまったからですが、「わたし」と「わたしがみている景色」の境界線がほどける魔法の瞬間(えもいわれぬ一体感、解放感、高揚感)に没我していた、といういいかたのほうがあっているかもしれません。
神威岬にのぞむ瑠璃色の海から立ちのぼる星の輝き、
いくすじもの天使の階段がさしこむ羊蹄山、
摩周湖をつつみこむ雲海は精霊たちのダンス会場、
いまにも喋りだしそうな阿寒岳をみあげる妖艶な林道、
フシギな音に耳をすますと水平線にすいこまれそうになる立待岬、
知床エリアにはヒトの侵入をこばむような神々の饗宴会場が乱立しているかのようで、おそるおそる道をえらんでいたっけなぁ、と。
車ひとつでどこにでもいけるという、いまにして思えばちいさな自由への一歩ですが、とうじにしてみれば待ちにまってようやく手にいれた解放感を謳歌する日々は、肉体をはるかにこえたナニモノカとつうじあう、たいへん便利なツールだったように思います。
「海をみているわたし」は息をのんだ瞬間「海からわたしをみて」いたり、
「山をみているわたし」は瞬きする瞬間「山からすべてをみて」いたり、
主体のポジションとか心理学的なロジックはなにも知らないながら(知らないからこそ?)、主客の境界線をほいほいとびこえて、北海道の大気に浸透するのがおもしろくてしょうがない、という時期でした。
その感覚はとくべつなことでもなんでもなくて、自然散策に興じる人はみんなおなじような体験をしているのだろうな、と。
そしてこどものころには誰もがふつうにつかっていた存在の仕方なのだろうと思います。
ぬいぐるみになったり、電車になったり、虫になったりしながら、こどものころは線引きなしで、世界のすべてとあそんでいました。
地球パークでは大人になるにつれて、うんと努力しながら主体と客体のあいだに明確な境界線をひき、「わたし」と「わたしじゃないもの」を区別するのがふつうの在りかたなのだという訓練を余儀なくされます。
それは世界を「見る」ときにしぜんと発動される、一体感や解放感、高揚感をカットすることからはじまったように思います。
わたしたちは、三次元的な肉体で生きている間は、見る、見られる、という主体と客体の関係を緩和できない。
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つまり肉体として生きているというのは、ある一定方向に進む時間の中に住んでいて、それは主体の方向性が決まっていて、この関係性でつくられている、見る、見られるという、内側と外側の関係は崩せない。
わたしは机を見ている。
机は見られている間、変化はしない。
自分が変化しないので、相手も変化しないのだ。
「死後を生きる」松村潔 アールズ出版
肉体に閉じこもることに飽き飽きして、変性意識にはいるための練習にとりくむ人々はいつの時代にもいて、瞑想や呼吸法、観想法、ヘミシンクやバイノーラルビートをつかうなど、練習方法はさまざま開示されています。
ロバート・モンロー(1915-1995年)はアメリカ合衆国の超心理学者。
体外離脱の体験者。科学的側面と体験による裏付けを基とした体外離脱体験(変性意識状態)の研究者。モンロー研究所の創設者。
主客の一体感は変性意識状態にはいることでとりもどすことができますし、いってみればだれもが経験のあるこども時代の通常運転、昔とった杵柄(きねづか)です。
「見る」対象は自然の景観であれ、空想世界のフシギ存在であれ、ぬいぐるみであれ、たがいを束縛したり呪縛したりしなければ、「見つづける」ことでどんどん成長するものなんだな、と感じています。
「生命の階段は神、天使、人、動物、植物、鉱物というように連鎖していて、上にあるものほど本質がつよく、下にあるものほど質量が強い」
木の実が熟す獅子座の季節は、植物界のスピリットがみずからの創造物である果実のなかに凝集して、上位存在である動物や人間界への階段をのぼりはじめるころでもあります。
界を突破し上位存在に食べられて一体化できれば、地にはられた根っこからきりはなされ、自由にうごきまわるよろこびを謳歌することができます。
こどもごころを解放し、印象活動から主客の一体化、想像から創造へと、生命の階段をいきつもどりつ、委細かまわずはしりまわるのがおもしろい獅子座の季節は、物質的に計測できない未知の世界と、物質社会の現場担当としてがんばってくれているからだを、ひとつなぎにする大秘宝があるとたすかります。
天地ゆきあう聖なる斜面に群生していたというラズベリーは、赤い宝石みたいな木の実のかがやきで、血液のなかに充満しているスピリットに共鳴して、獅子座の心臓・動脈と、水瓶座の静脈をかけめぐりながら、界を突破するほどの自由や、冒険にのりだす勇気を加速させる、マレビト成分たっぷりの果実なのかもしれません。
ラズベリーのもつ血管収縮作用は血のめぐりを加速させ、からだという小宇宙のどこかにとじこめられてしまった星の子成分に、動機の萌芽をはこんでいるのかもしれないな、と。
「死後を生きる」松村潔 アールズ出版と、十勝農家から頂いた手づくり蝦夷苺ジャム。
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お読みくださりありがとうございました。
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